高祖父、日本帰国の謎

ママの高祖父は、アメリカに50年くらい住んでいました。

高祖父(ひい、ひいおじいちゃん)とは、
ママのおじいちゃんのおじいちゃんにあたる人の事。

ユタ州では、建設会社を経営し、多くの従業員と働いていたそうです。


高祖父は、アメリカで長く生活をし、財産も築いたものの、それらの資産すべてをスーツケース一杯の株券に変え、日本へ突然帰国します。

何故日本へ帰ったのか?ママはずっとその理由が気になっていました。

ママのおばあちゃんに一度、高祖父が日本へ持ち帰った写真を数枚見せてもらった事があります。黒白の写真ですが、サンフランシスコにあるゴールデンゲートブリッジの完成後に旅行で訪れた時に撮った写真でした。

ゴールデンゲートブリッジは、1937年に完成しています。
なので、高祖父は、1937年以降にその地を訪れた事になります。

そして、日本へ帰国した彼は、福岡の日本軍駐屯地で、第2次大戦後、アメリカ軍と日本人の通訳を頼まれ、しばらく働いていたそうです。またその当時、アメリカにいた頃の高祖父を知る人々がよく、彼の家を訪れ、チョコレートやウイスキーと言ったお土産を持って来てくれていたそうですよ。

高祖父は、1937年以降から、第2次大戦終結の年、1945年の8年間の間に、日本へ帰国している事になります。

日本の学校では多分習いませんが、第2次大戦中にアメリカが参戦するきっかけとなった、日本軍による真珠湾攻撃を期に、アメリカにすむ日系人は皆、スパイ活動容疑の疑いをかけられ、強制的に数か所のキャンプへ収容されてしまいました。


ママの高祖父は、多分、この強制収容を免れるために、日本へ帰国したのでしょう。

カリフォルニア内で活発に行われた、反日系人運動は、次第にアメリカ全土へと広がっていき、カリフォルニアから少し離れたユタ州に住む高祖父は、間一髪ですべての資産を株券に変え、日本へ帰国する事が出来たのかもしれません。


ママはちょうど今、アメリカの歴史を詳しく勉強しています。
30人程度の生徒の中で、日本人はたった一人です。
でも、わざわざ2回の授業を使って、先生はこの日系人強制収容について、詳しく教えて下さいました。

本来はもっと別の、第2次大戦の大まかなあらすじを学ぶ予定になっていましたが、先生は日本人である私に配慮し、授業の内容を変えて下さったようです。

この日系人強制収容の為、カリフォルニアに住む日系人は皆、財産をほぼすべて失い、田舎の特別キャンプ地へ移動されられ、数年の間、兵隊さんたちに囲まれ、不自由な生活を強いられました。

不自由な生活とはいえ、ドイツがユダヤ人に対して行った様なひどい事はされず、キャンプ地内ではある程度の自由と、満足な食料、教育が確保され、子供たちは楽しく生活が出来ていたようです。


その後、スパイ容疑をかけられていた日系人は、疑いが晴れ、解放されます。
誰一人として、スパイ活動を行っていた者はいませんでした。


世論が反日系人へ傾いたのも、そもそもアメリカの地で、毎日勤勉に働いた日系人たちが、平均よりも豊かな生活を送っていた事に対する妬みも含まれていたのです。


強制収容から解放されたものの、日系人たちはほぼ財産を失っていたため、また一から生活の基盤を築かなければなりませんでした。

皆さん、とても大変な思いをされた事でしょう。


ママはこの2つの授業を受けている途中、涙があふれて止まらなくなりました。

それは、同じ日本人で、誇り高い彼らが侮辱された事に対する、悲しみもありますが、また同時に、ママの高祖父がつかんでいたはずのアメリカンドリームを、国同士の戦争である第2次世界大戦によって失い、差別から逃れるために、長く住んでいた土地を離れなければならなかった、彼の悲しみに深く感情移入をしてしまったからです。


ずっと謎であった、高祖父の日本帰国の理由が分かり、約70年の時を経て、私は当時、日系人を差別していたアメリカ人が謝罪をしているビデオを見ました。
そして、2つの授業を割いて、事実を教えてくれた先生の心遣いに、とても感謝をしています。

ママの高祖父も、帰国後の日本でしばらく、悲しみに暮れていたかもしれません。
それが、彼の血を引く子孫がまたアメリカに戻り、彼の友人たちであったろう日系人のその後の運命と、差別をしていたアメリカ人の謝罪を知る事ができたのです。


ちなみにママも、今年の夏、ゴールデンゲートブリッジを訪れました。
不思議なものですね。
その時は高祖父の撮った写真の事を全く忘れていましたが、彼が歩いたであろう場所を、70年後、同じように偶然、子孫が歩いたのです。