愛の力 1 憎しみを超えるもの

長くなるので2回に分けて書きます。
これはその1。


日本語での”愛”という言葉は非常にクサく、重いように思えてしまう。

今日はそんな”愛”という言葉をふんだんに使った日記を書く。
刺激臭がつらく耐えれない人はそっとブラウザーを閉じてしまって下さい。


この一年は私にとってとても辛く耐えがたい日々の連続であった。
私の人生の中でも、1、2位を争うくらいの精神的な苦痛の海で、一向に岸に上がれないという日々が続いていた。

それは、”憎しみ、恨み”をある経験によって心の中に抱えてしまい、またその感情が理性ではコントロールができない程のものであったからだ。


数年前、ある友人が教えてくれた。

「憎しみを抱えているという状態は、高温の熱い鉄を抱いているようなもの。

それをぶつければ相手も怪我をするが、抱き続けている自分も大やけどをする。」



理性という水で何度冷やそうとしても、高温になりすぎた鉄は冷える事がなかった。


とうとうそれは、”相手を殺してしまいたい”という究極の感情にまで発展してしまった。

もちろん理性では分かっている。
そんな事をしても解決はしない。
そんな事ができるわけがない。


そして、そういった感情を持つに至った自分を責め始めてもいた。

なんと堕落した人間だろうか、と。


もちろん、こういった感情を抱くまでになってしまった原因はある。

しかし、どれだけ辛辣な事が起こったとしても、その状況を打開し、負の感情をコントロールする事が、人間の生きる術であると理性は知っている。



理性と憎しみの狭間で、何カ月も葛藤した。


そしてようやく、数週間前に一転、負の感情に打ち勝つ事ができた。


”愛”という感情が発生したのだ。


それは恋愛の愛や親が子供に抱く愛でもない。


表現するのはとても難しい。


人間の持つ弱さ、軽率さ、自分勝手さ、暴力性、不安定な優しさ

そういったものを十分理解したうえで、与える事ができる愛。


無償の愛でも無く、欲情の影が見え隠れする愛でも無い。

私の魂が、相手の魂を受け入れる決意をした。
そういった表現がしっくりくる。


ある時フと気がついた。
私が死ぬほど恨んだ相手の魂が、私が歩いている世界とは違う場所にいるという事に。


そしてその魂もまた、傷つき不安定で、助けを求め泣いているんだという事に。


憎しみをぶつけるだけでは、何も良い方向には進まない。

お互い傷つき続け、さらに闇へ堕ちていく。

許し、愛する事で、お互いが救われるのならば、なぜそうしないのか?



それに気付いた時、すべての負の感情が驚く程に私の体から消失してしまった。

また、今までの人生で理不尽に私を傷つけてきた人達に対し抱いてきた負の感情も、同時に消えてしまった。


そして、変な話だけども、私自身が、何者かの大きな愛に包まれるような感覚になり、その温かさと嬉しさで涙が溢れてきた。


続く。